2013年8月28日水曜日

すりかえられた 「手話か口話か」 無視されたろう学校高等部の生徒たちの切実なねがい ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 5 )




 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ろう学校では、生徒に「よくわかる授業」をもっと大規模に研究・検討・教育実践すべきだったのが「授業拒否事件」の教訓だったのである。

 特に、高等部の生徒たち深く検討してみると、義務教育における普通教育が充分保障されてこなかっこと。そのため、引きつづき引きつづき普通教育の保障をもとめていたことが解る。

 最近、この普通教育ということばが「通常教育」ということばにすり替えられていることが多く、少し普通教育について述べておく。
 

ろう学校高等部の生徒は
  個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する
人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造と
   しての普通教育の保障を強く求めていた

 普通教育は、すべての人が共通に必要とする一般的・基礎的な教育のことで、特定の職業人の養成を目的とする職業教育や専門教育と区別されている。

 日本国憲法26条、教育基本法4条(授業拒否当時)で、義務教育の内容は普通教育と規定し、学校教育法でも、義務教育である小学校、中学校の目的をそれぞれ初等普通教育、中等普通教育としているほか、高等学校の目的として、高等普通教育を専門教育とともにその課程が置くことが定められていた。
 

 これは、第2次大戦中まで普通教育が国家統制下にあったことから、共通の普通教育=画一的な教育とされたり、高等教育段階の専門教育と対比して低次の教育と考えられたりする傾向が改められ、普通教育の目的は、教育基本法の前文(授業拒否当時)に見られるように、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造におかれていて、画一的・権力的国家統制を否定したものであった。

 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造を求め、画一的・権力的教育にろう学校高等部の生徒たちが反対したことが彼らの声明や日記などから充分読み取れる。

 義務教育の普通教育すらろう学校では保障されていないではないか、と。

 このことは、1970年代に入って京都の障害児教育推進協議会で大論議になるが、後に述べる。

  「聞こえる」ことと「理解する」こと

 このことが、真摯に行われていたら、ろう学校生徒はもちろん、インテグレーションで普通校で学んでいたすべての聴覚障害生徒に豊かな教育が保障され、教育内容が享受できたはずである。

  「授業拒否事件」の教訓を充分検証していない人は、「授業拒否事件」の教訓が「口話教育」から「手話教育」への転換であったと極言する。

 だが、はたしてそうであったのだろうか。

 その答えは、聞こえる学校であるとする普通校で、主として先生がしゃべり、生徒が聞くという教育が行われているが、生徒たちがはたして「授業がわかる」という状況になっているのか、どうか、ということだけでも考えて見れば明らかである。

 コミュニケーションの成立が前提にしても「知ること」「聞こえる」ことと「理解する」ことは、次元の異なったことである。

 その点で、「授業拒否事件」の当事者であるろう学校と生徒たちが出した要求は、大切であった。

  基本的で総合的な教育改革
         の中で手話による教育を要求した

 彼らは、単純に手話による授業ということではなく、基本的で総合的な教育改革の中で手話による教育を要求したのであり、手話教育だけを要求したのではないと言うことである。

論点がすり替えられた
   「聾学校教育=口話法」 「聾学校=手話法」


  授業拒否事件について、現在聴覚障害教育を実践している教師は、以下のように書いていることを紹介しておきたい。

 当時のろう学校の生徒は、単純に手話による授業ということではなく、基本的で総合的な教育改革の中で、聴覚障害者である自分たちにも「教師と生徒が通じあえて、学べる学校教育が当然享受されるべきである」と要求したものである。

 それが彼らのコミュニケーション手段であった「手話を取り入れた教育」として具現化されたのである。

 単に手話教育だけを要求したり、現在言われている「バイリンガル教育」を求めたものではなかったのである。

 奇しくも当時「口話法」という指導方針を頑なに堅持していた聾学校教育において、その成果が不十分とされた高等部の生徒の意見に耳を傾ける教師が少なく、そのことが「聾学校教育=口話法」という構図を生み、「聾学校批判=口話法批判=手話による教育」と論点に置き換えられていったものであった。

   生徒たちは ひとつの方法論に偏るものではなく  聴覚障害者のコミュニケーションに関して科学的研究に基づく改善を求めた

 授業拒否事件は、そのようなひとつの方法論に偏るものではなく、広く聾学校での教育について手話や口話を含めて、聴覚障害者のコミュニケーションに関して科学的研究に基づく改善を求めたものであった。
 このように課題意識を持ち 教育改善を求めるにいたった生徒たちの力を育んできたのは、皮肉にも、後の授業拒否事件の解釈によって批判の的になる当時の口話法による聾学校教育であった。

 手話とは相対する立場であると決めつけられている聴覚活用を進めた教育による成果が、結果として手話による教育を求める生徒の声となって現れたことは、まったく知られていない。

 このこと一点をとらえてみても、単なる方法論として「手話か口話か」という問題ではなく、広く聴覚障害教育のあり方に関わる問題が、授業拒否事件であったとみることができよう。


  では、1860年代の京都ろう学校幼稚部ですすめられた対応教育とはどんな考えの基ですすめられたのかを紹介して行きたい。

 決して単純な教育観に基づいて行われたことだけは知って、それに対する考えを述べてほしいものである。

 今日、手話を学ぶ人々の中には、口話教育とはどのような考えで、どのようにすすめられたのかを知ろうとしないで断定的に判断していることを考えて。              
                  
                
                                                                                          ( つづく )

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